私は同世代の子がいじめを苦に自殺したという報道を耳にするたび、やるせない思いに駆られる。
誰にでも平等にあるはずの人権。しかし、その人権を侵害され、自ら命を絶つ選択をしてしまうほど追い詰められた被害者。一方で、人権を侵害しても、自分は法と権利に守られて、顔も実名も報道されない加害者。日本は死んだ者には人権が無いとする社会だから、死後、被害者の個人情報は世に出回り、好奇の目に晒され続ける。私はそんな、加害者の権利ばかりが守られていると感じてしまう社会に、酷く憤りを感じる。
暴行罪、傷害罪、侮辱罪、名誉棄損罪…。
いじめの多くは、罪状を付ける事が出来る。
いじめという柔らかい言葉が物事の本質を覆い隠し、罪を軽く感じさせてしまう。「いじめ」ではなく、「犯罪」だと強く主張したい。
実際に、私が中学生の頃は日常生活の中にいじめが潜在していた。他者評価に敏感になる年頃の、未熟な子供たちが集められた閉鎖的な空間で、全ての人が無条件に互いの個性を認め合えるわけがなかった。
少しでも異質な存在がいたら吊るし上げ、悪口を言って笑った。陽キャ、陰キャで人をカテゴライズして、その中でも一軍、二軍とスクールカーストを作った。皆が皆、常に周りからの評価を気にして、立ち位置を気にして、本当に息が詰まりそうだった。
先生もそんな状況を把握していた。いじめが問題になった事もあった。私自身も目に余るほどの嫌がらせを受けている子を見て、先生に相談した事もあった。しかし、先生はただ話を聞いて、表面上だけ解決したように見せて、実際には何もしてくれなかった。結局、次の日からもいじめは続いた。話を聞くだけで何もしてくれない先生が、耳だけが長く、手がない姿をした化け物のように思えた。
そんな中学校生活を二年間送り終えて、中学三年生になった時、私は恩師と出会った。
その先生は、担任になった当初から、
「いじめや悪口だけは絶対に許さない」。
と口酸っぱく言っていた。しかし、私は当時、その先生を毛嫌いしていた。先生なんて何もしてくれないくせに、どうせ口だけでしょ…と。正直、先生という存在に何も期待していなかった。しかし、その先生は生徒一人一人をよく気にかけてくれた。廊下ですれ違ったり、職員室で会うたびに声をかけてくれた。放課後の教室になるべく遅くまで残って、一人一人に挨拶を交わし、雑談をする事も多かった。そんな小さなコミュニケーションの積み重ねは、私たちが先生に対して心を許し、信頼するには十分だった。
また、その先生はいじめ対策に本当に熱心だった。先生自身もいじめを経験しており、体験談を用いて、いじめの悲惨さと、受けた者が感じる痛みを真っすぐに教えてくれた。
席替えもアンケート式で、事情があって席を離してほしい人・近くにしてほしい人を各々書いた紙を収集し、先生が座席表の候補を出す。それをクラスリーダーと共有して再検討し、確定する方法だった。勝手に席を決めるなんて、不満を持つ人も多いんじゃないかと心配したが、むしろ、起きる可能性があるいざこざを事前に防ぐ事が出来て、より過ごしやすい学校生活が作り上げられた。
この先生との出会いが、私たちのいじめに対する向き合い方を変え、友達を助ける勇気をくれた。私も、今までは行動しても意味がないと諦めて傍観していた事も、度を越えた悪口や嫌がらせを見かけたら、積極的に先生に相談するようにした。また、自分自身がいじめの解消に直結する行動が出来なくても、いじめられている子に話を聞くようにした。その行動はクラス全体にも伝染していき、そうした環境が形成されていった事で、私たちのクラスはいじめが発生しにくくなったのだ。
日本ではある事が問題視されている。日本のいじめは、いじめる人、いじめられる人、観衆、傍観者の四層構造に当てはまるものが多い。また、いじめを止めようとする仲裁者も存在するが、日本のいじめ構造の中では、傍観者の中に埋もれてしまう場合が多い。
実際に、平成二十一年度に厚生労働省が行った調査がある。その調査結果では、日本人は歳を重ねるほど、傍観者が増えて、仲裁者が減るという傾向がある事が分かった。
これが強く問題視されている日本の現状だ。いじめの四層構造が広く知られるようになり、この現状が数々の調査で浮き彫りになった事で、傍観者を減らし、仲裁者を増やそうとする活動をよく目にするようになった。
しかし、もう少し調査結果を冷静に見て、目標設定をする必要があると感じる。仲裁者を増やすという目標を掲げても、一筋縄では達成出来ない理由があるからだ。
まず、いじめは内容で分類すると、主に二パターン存在する。暴力系のいじめと、コミュニケーション操作系のいじめだ。
暴力系のいじめは、殴る・蹴る、恐喝する、物を壊すなどといった行為のいじめを指す。
一方で、コミュニケーション操作系のいじめは、無視をしたり、陰口を言ったり、くすくす笑いをするといった行為のいじめを指す。
日本では、海外に比べて後者のいじめが主流である。これが簡単に仲裁者を増やす事が出来ない理由だ。
暴力系のいじめは犯罪であるため、法的に対処したり、必要次第で警察や弁護士に任せる事が出来る。しかし、問題は日本で主流のコミュニケーション操作系のいじめである。隠微で曖昧な笑いや仕草、何とでも解釈出来る言葉を「いじめ」と判断し、処罰を下す事は非現実的だ。要は、日本のいじめは証拠が残りにくく、介入する事が難しい場合が多いのである。さらには仲裁した際に、自分に矛先が向く恐れもあるため、いじめの仲裁を生徒自身に期待し、委ねるという行為自体が、そもそも見込みが薄いのだ。
しかし、歳を重ねるごとに傍観者が増えて、被害者を助ける存在が減るという事実は変わらない。では、やはり仲裁者に注目し、責任を置くべきなのか。いや、私は仲裁者ばかりが重要ではないと思う。いじめを取り巻く環境の中では、他にも重要な役割がある。
それが、「通報者」と「シェルター」だ。
まず、通報者とは、いじめがある事を先生などに知らせる人を言う。次に、シェルターは、被害者に親身になって話を聞き、心の拠り所になる人の事を言う。
私のクラスは傍観者だった人が、これらの役割を担うようになった事で、いじめが深刻化する前に解消する事ができ、いじめが発生しにくい環境が作り上げられたのだと思う。
傍観者だった人が通報者に変わる事で、放置され、深刻化するいじめを減らす事が出来る。直接的な解決に貢献できなくても、シェルターに変わる事で、被害者の自尊心や居場所の喪失感を緩和する事が出来る。
他にも、話題が悪い方向になった時に、その芽を摘む「スイッチャー」という存在や、いじめがどこで起きて、何があったかなどを記録する「記録者」などの役割もいる。
これらの役割をする人を増やすためにも、いじめ問題に対して教師だけではなく、学校や親が連携して対策し、信頼される環境づくりが必須である。
いじめのある空間で生活している子どもは誰一人として幸せではない。被害者から見れば、助けてくれない傍観者は、加害者の一部に見える事もあるだろう。しかし、傍観者の中にも、いじめの矛先が自分に向くかもしれないという恐怖で、いじめを止める事が出来ない、と辛い思いをしている人もいる。そんな時に、被害者の子が命を絶ったという事になれば、傍観者も深い傷を負い、トラウマになってしまう事もある。いじめがある空間からは、誰も幸せな人を生まないのだ。
私たち子どもの本当の願いは、「いじめから助けて欲しい」ではなく、「いじめが起きて放置される環境を変えて欲しい」それが願いなのだ。
だからこそ、仲裁者までとはいかずとも、傍観者が通報者やシェルター、スイッチャーなどに変わる事が出来る安心した環境づくりを目指すべきだ。そういった環境が作り上げられれば、多くのいじめ問題は深刻化する前の初期段階で解消する事が可能になる。
気付いた方もいるかもしれないが、私はこの作文を、いじめ根絶を目的とした活動の一環として行っているわけではない。むしろ、いじめは絶対に無くならないと思っている。
私たちは生物である以上、自分と他人を比較する本能が備わっている。その優位性の誇示として、いじめに発展するのだ。もはや、導入は生物的本能であるため、他人との関わりを断たない他、いじめを根絶する方法はないのである。
だからこそ、「いじめゼロを目指して」とか、「いじめを撲滅しよう」という文言を見かけるたびに、本質から目を背けて、問題と向き合っていないと感じてしまう。いじめ撲滅という不可能な課題設定をするのではなく、いじめは必ず発生し、常に存在しうるものとして、それをいかに初期の段階で解消出来るか、それに重きを置くべきだ。
よく、若者の自殺者に対して大人が言う。
「まだ若くてこれからなのに、自ら死んでしまうなんて考えられない。」と。
勿論、その言葉も十分に理解が出来る。人生を八〇年として、それを一日と考えると、私たちはまだ午前五、六時台にいるだろう。これからやっと一日が始まるという時間だ。
しかし、今現在、学生だからこそ分かる。私たちにとって、学校は絶対的で、それが全てのように感じてしまうのだ。今見ている世界が、空間が、全てのように思えてしまう。頭では理解している。今のこの時間がずっと続くわけじゃない、と。しかし、それを理解していても、いつか来る幸せを待って、じっと耐えられるほど、私たちは強くない。
だからこそ、どうしても辛くて、折れてしまいそうな時は、逃げる勇気も必要だと思う。自分の心がボロボロになって、壊れてしまう前に。逃げる事は、弱さの証明ではない。
勿論、順序的に「最後の手段」としてだ。自分なりに嫌な事があったら、それを本人にはっきりと伝える。それが出来ないのなら、親に話して、先生に相談する。それでも駄目なら学校や教育委員会に話を通す。でも、親でも先生でも、学校でも駄目なら、逃げるという選択肢を作っても良いと思う。真正面から立ち向かい続けたり、ずっと我慢し続ける事だけが全てじゃないんだよ、と今苦しんでいる人に伝えたい。
学校から逃げるのも一つの手。学校を変えたり、自分が壊れてしまいそうなら、学校に行かなくたって良い。もし高校生なら、通信制高校に入る事も、一つの選択肢だと思う。周りの環境がそれを許してくれないのなら、勇気を出してカウンセラーや、警察、専門機関に話してみると良い。きっと、以前よりもずっと視野を広げられるだろう。そうしたら、暗闇の中で、何も先が見えなかった状況が少しずつ変わって来るはずだ。
いじめで苦しんでいる人は、自分にも非があるのでは、と思い悩んでいるかもしれない。しかし、これだけは忘れないでほしい。あなたは何も悪くない。もしかしたら努力次第で現状が少しは変わるかもしれない。だから自分の短所を見つめ直して、改善する努力も必要だとは思う。しかし、卑下する必要はない。いじめられる側に問題があるのではない。いじめる側が目敏くいじめるための原因を見つけ出して、いじめを正当化する理由付けをしているのだ。しかし、何があっても、人をいじめていい理由など存在しないのだ。だからどうか自分を責めないで欲しい。悪いのは絶対に加害者なのだから。
中学生の私は弱かった。どうせいじめを解消する事なんて出来ないと、諦めて傍観していた。しかし先生との出会いをきっかけに、変わる事が出来た。いじめの解決に直結するような行動は出来なかったかもしれない。しかし、それで良かったのだ。まずは小さな事からで良い。被害者に寄り添って、話を聞くだけでも、孤立感を感じさせず、心の拠り所になる事が出来る。そんな行動が周りにも伝染していって、小さな勇気の輪が広がれば、おのずといじめの初期段階の発見が可能になり、解消のスタートラインに立つことが出来る。そしていじめは発生しにくくなる。苦しんでいるあの子を救うきっかけを作るのは、他の誰でもない、あなただ。小さな事から勇気を出して行動してみよう。
目の前にいるあの子と、明日を生き続けるために。明日を見続けるために…。 |